もう3年くらい前でしょうか。
ゲストさんと街歩きメンバーさんが夜市か何かで金魚をすくってきてくれました。
確かその時は3-4匹くらい持って来てくれたと思うのですが、
現在はそのうちの1匹のみが生き残り、
今なお水槽で元気に泳いでおります。
元気に、、、?
泳いでる、、、?
すみません、今嘘つきました。
正確に言うと、決して元気というわけではなく、
もっと正確に言うと決して泳いでいるというわけでもなく、
金魚はただただまんじりともせず水槽の中で一点を見つめ、
恰も思索に耽るが如くじっとしています。
時々お客さんが、
「この魚は生きてるのかい?」
と心配そうな顔で訊いてきますが、
彼(彼女)はただただまんじりともしないだけでしっかり生きてます。
更におせっかいなお客さんは、
「こいつは幸せなのかい?」
とか
「名前は何だい?ないなら付けようか?」
と言ってくれたりもしますが、
私自身、魚の幸福度がわかる程悟っているわけでもないし、
名無しこそ長寿の秘訣ということも考えられるので敢えて名前も付けてません。
そういった訳で、
もはや生き物というより置物化してしまっている嫌いのあった
The fish with no nameですが、
先日まんじりともせず静止しているはずの水槽を指差し、
ひとりの外国のお客さんがこんなことを言ってきました。
「ココニ ギューニュー ヲ イレテモイイデスカ?」
最初言ってる意味が分からなかったので静かに微笑みながら
「Sorry?」と聞き返すとまた
「ココニ ギューニュー ヲ イレテモイイデスカ?」
と少し心配そうな顔で繰り返します。
「うん、水槽に牛乳とはなかなかおもしろい発想だなぁ、山田君彼に座布団5枚。」
とこの手のジョークにうまく返せない日本人なりの日本人的返しを思いつきましたが、
日本語かじりかけの彼にこの冗談返しは通用しないと思い、
一旦そのジャパニーズジョークをサヤに納め「その冗談おもしろくない」という顔をしてあげると、
彼は決して冗談ではないと言った哀しい顔をします。
その顔があまりにも慈悲深く見えたので、
彼の指差すその水槽を見てみると、
なるほどThe fish with no nameの背びれが半分程水から出ております。
そうです、水槽の水が体の一部がはみ出すくらいに減っていたわけでございます。
何と彼は水かさが減った水槽でまんじりともしないThe fish with no nameを思い、
液体を追加注入してあげようとしていた訳であります。
やさしいこころの持ち主です。
しかし「ギューニュー」とはいささかおかしくないですか?
「アー ユー シュアー?
ギューニュー イズ ノット ウォーター
ギューニュー ミーンズ ミルク」
彼にそう囁くと彼は「Oh!」と言ってアタアを抱え込みました。
なるほど、日本語かじりかけの彼は「ミズ」と「ギューニュー」を間違えていたわけです。
よくあります、そんなこと。
昔日本に旅行に来ている台湾人の女の子をナンパしてたとき、
ちょっとかじった中国語で
「ニー シー シュエション マ?(学生ですか?)」
と聞きたかったのに
「ニー シー シエンション マ?(先生ですか?)」
としつこく聞いていた過去を思い出しました。
「わかる、わかる、君のその気持ちよくわかるよ」
頭を抱えた彼をそっと慰め、
慌てて牛乳ではなく水を追加注入してあげると、
The fish with no nameは一旦はころんと腹をみせて浮き上がってきましたが、
その後は水を得た魚のように(<そのまま過ぎて例えとしてイケてない)
息を吹き返しました。
いやぁ毎日同じものを見ていると、
日々の変化にも気がつかなくなってしまうんですね。
反省しました。
ちなみにThe fish with no nameは
今日もまんじりともせず(つまり元気に)水槽でじっとしてます。