「さとりなば坊主になるな魚食へ地獄へ行って鬼に負けるな」
意味的には助動詞「な」が希望的な何かかなと思い「悟りたいならば」なのかなとも思ったのですが、
さとり(動詞「さとる」の連用形)+な(完了の助動詞「ぬ」の未然形)+ば(接続助詞)
という古文の用法的には「悟ったのならば」になるのでしょうか?(誰か詳しい人教えてください)因みに散歩から戻ってググってみたのですが、これは一休さんと蜷川新右衛門さんの禅問答の一部で、この歌は一休さんではなく新右衛門さん作のようです。(確証なし、誰か詳しい人教えてください)流れから言うと、一休さんの
「生まれては死ぬるなるけりおしなべて釈迦も達磨も猫も杓子も」
に応えて詠んでるので、破戒僧とは言え一応聖職者の一休さんの論理破綻を突きつつアイロニカルな表現で新右衛門さんがしゃばにお誘い申し上げている感じなのでしょうか。個人的にはこの二人の問答は、所謂よくある故人の有り難いお言葉などよりもリアリティーとユーモアがあってとても好きですね。
さて、そうこうしていると新装開店した珈琲人町さんに辿り着いたのでおいしい珈琲をいただき、春なのに今年は何故かどんよりしている街の空気を払拭すべく、龍馬よろしく「武士は食わねど高楊枝」と中通り商店街を珈琲片手に闊歩するのでした。
おわり。